はじめに:「やさしいがつづかない」と感じている人へ
「やさしいがつづかない」と悩んだことはあるだろうか?
「どうして自分は人にやさしくできないのだろう?」
そのように自分を責めて自己嫌悪におちいる必要はない。
「やさしくありたい」という想いは、すでに潜在的な「やさしい」が備わっている証拠。
そもそも「やさしい“が”つづかない」のではない。
「やさしい”は”つづかない」ものなのだ。
「やさしい」がつづいたとしたら、それは奇跡的なことが起きている。
もし、ずっと「やさしいがつづく」ことがあれば、それはよいことではないかもしれない。
「やさしい」を深く理解すれば、人間関係を構築・維持する道筋が見えてくる。
書籍の基本情報
タイトル | : | やさしいがつづかない |
発行日 | : | 2025年7月20日 初版発行 2025年7月20日 電子版発行 |
著者 | : | 稲垣 諭 |
発行所 | : | サンマーク出版 |
詳細 | : | やさしいがつづかない |
主要なポイント・学び
やさしいは性格ではない――やさしさは、いつでも行動と結びついている必要がある。
たとえば、「席を譲りたい」と考えても、恥ずかしくて行動に移せないことはよくある。
どんなに相手のことを思っていようと内面で完結するなら、やさしいことにならない。
「席を譲る」という実際の行動があることで「やさしい」ということになる。
行動とまったく結びつかない、言葉だけでやさしいふりをする人もいる。
騙されてはいけない。
「やさしくする」ということは、「やさしさを行動で示す」ということ。
しかし、それはとてもハードルが高く難しいことだ。
これは「やさしい」を理解することで「やさしいがつづかない」に対処しようとする試みである。
「やさしい」は、痩せる
やさしいの言葉の意味――やさしいは「優しい」と表記される。
しかし、もともとは「痩さし/痩さす」から来ている。
身も痩せるほど思いつめて自分自身が損なわれてしまうという意味だ。
そして「やさしい」は、「簡単な/単純な」という意味も持つ。
つまり、痩せるほど思いつめる繊細な人は「他人が簡単に利用できる」ということだ。
人間の2つの本性
私たちは、やさしい行動を見ると心を打たれ、あたたかい気持ちになる。
できることなら「やさしくありたい」という想いをもつ。
しかし、一方で「やさしい」は他人に利益をもたらす行為ともいえる。
私たちは「ズルい」を許すことができない。
この相反する人間の本性によって、私たちはしばしば引き裂かれそうになる。
「やさしい」を止められない
マイクロ・カインドネス――些細なことで困っている人に手を差し伸べる行為。
本書では、これを「マイクロ・カインドネス(micro-kindness)」と呼ぶ。
たとえば、食卓で「醤油取って」と言われて、咄嗟に「はい」と手渡すような小さな善意。
あなたも意識や思考に先立ち、目の前にいる人にやさしくした経験があるはずだ。
あなたの中には、確実に「やさしい」の芽が存在する。
マイクロ・カインドネスを受けた人は、別の人にマイクロ・カインドネスを返すようになる。
つまり、マイクロ・カインドネスは、受けた人の幸福度を高めて寛大な行為を促進させる。
あなたには「やさしい」を止めることができない側面があるのだ。
「ズルい」が許せない
ズルい――私たちは「フリーライダー=タダ乗りする人」をとにかく嫌う。
「ズルい」という感情は、「公正であるべき」という理想の裏返しだ。
不正を許さないとする感覚は、私たちの生命と暮らし、財産を守るのに必要なもの。
それは人間の尊厳にもつながっている。
それらが脅かされるとき、やさしくならないことにも十分な理由がある。
「やさしい」は、他人に利益をもたらす行為といえる。
それは、「ズルいという感情」に反する。
人は、ときにフリーライダーに対してさえ寛大さを発揮する。
「やさしい」は、フリーライダーを防止することよりも、逆に助長に貢献する。
「やさしい」が困難である理由
やさしいの定義――「やさしい」は次の2つの条件を兼ね備えなければならない。
- コントロール権を手放し、相手に委ねること
- その結果、起こることの責任は引き受けること
実は、マイクロ・カインドネスは①しか満たしていない。
①と②の双方を満たすことが本来の「やさしい」には必要だ。
「やさしいはつづかない」理由は、①よりも②のほうが大きい。
「やさしい」は、コントロール権を手放し相手に委ねること
コントロール――それは支配すること。
自分ができる範囲を自分で決める裁量権である。
「やさしい」とは、あなたのコントロール権を手放して相手に手渡すこと。
自分の体力や時間を、自分のために使うのではなく、相手のために使うのだ。
あなたがやさしくできないとき、相手に自分のコントロール権を委ねたくないと思っている。
コントロール権争い――現代社会では、セルフコントロールが重視される。
セルフコントロールの増大は、私たちの自由の拡張につながっている。
セルフコントロールの減少は、あなたの自由が奪われることになる。
そのため、人々は他人のコントロールを奪おうとする。
そして、自分のためだけにコントロール権を使おうとする。
このコントロール権争いが、ますます「やさしいはつづかない」を引き起こしていく。
「やさしい」は、責任を引き受けること
責任を問われる――誰かからの依頼を引き受けたが、後々後悔した経験はないだろうか?
この責任の意識があなたを痩せさせてしまうのだ。
相手に席を譲ったり、物を拾ってあげても、結果の責任を引き受ける必要はない。
人は責任が問われないからこそ他人にやさしくできる。
責任こそが私たちのやさしいがつづくことを邪魔するのである。
やさしいは、自分の身を切る勇気のいる行為。
だからこそ、やさしい行為は多くの人の心を打つものになる。
「やさしい」が発揮される人間関係
仲がよくなる――それは「共同的分かち合い(communal sharing)の関係が強くなること。
自分の利益や取り分などを考えずにすべてを共有し合う関係のことだ。
「共同的分かち合い」関係は、基本的には家族や血縁、パートナー関係だけに許される。
つまり、極めて特殊な範囲でのみ成立する。
だからこそ、見知らぬ人に発揮されるマイクロ・カインドネスはとても奇跡的なことなのだ。
人間関係の4つのモード――私たちの人間関係は、4つのモードで営まれている。
- 共同的分かち合い
基本的には身近な人だけで成立する。
災害ユートピアなど、例外的に見知らぬ人との間でも成立することがある。
貸し借りや義務のない、やさしいを成立させることができるのは、この関係のみ。
- 権威ランクづけ
上下の権力勾配が存在し、一方が他方の命令に従い、従属する関係。
例:両親と子ども、教員と学生、上司と部下、医者と患者、警察と市民 など。
- 平等マッチング
基本的には友人間で成立する公平で平等、フリーライドすることを許さない関係。
例:民主主義の国での国民同士 など。
- 市場価値づけ
社会・経済的な価値に重きが置かれる関係。
例:所属する組織、学歴、裕福か貧乏か、SNSのフォロワー数 など。
人間関係は、この4つのモードが重なり合い、臨機応変に使い分けされている。
(例:親と子の間には「①共同的分かち合い」と「②権威ランクづけ」がある)
つまり、身近な人同士でも「①共同的分かち合い」関係以外のモードが入り込む。
それによって、うまくいかなくなってしまう。
目の前にいる相手に対して、どの人間モードで接しているかを客観視してみよう。
それだけで、相手に「やさしいがつづかない」理由が明らかになる。
理由がわかれば、自分の気持ちに納得できることもあるだろう。
あなたの周囲の人たちは、やさしい人だろうか?
やさしくないとすれば、彼らはあなたにフリーライドしつづけている可能性がある。
あなたの「やさしくなれない」という苦境は、あなたの怒りを押し殺した結果かもしれない。
それは、あなたの問題ではなく、あなたの環境の問題だということだ。
もし、サービス残業をやさしさで引き受けているのならお勧めできない。
それは、あなたの能力や才能の安売りに他ならない。
あなたは搾取されている。
この場合は、あなたのやさしさのほうに問題がある。
ときに他人からの依頼やお願いを断る勇気が必要だ。
それは、あなたのコントロール権を取り戻すための戦いでもあるからだ。
やさしさで誤魔化してはならない。
「やさしい」は、余裕がもたらす
やさしいには余裕が必要――余裕がないとき、人は自分のことを第一に考えようとする。
そうすると、他人をコントロールしたくなる。
他人の欠点や弱点がよく見えてくるようになり、強く責め立てたくなる。
「やさしいがつづかない」とき、あなたは自分に余裕がどれだけあるかを問うべきだ。
余裕の力を確かめる、わかりやすい3つの指標がある。
- 経済面
お金がないと心が荒む。
経済的余裕とは、お金についてあれこれ思考をめぐらさなくても大丈夫な状態。
「金の切れ目は縁の切れ目」は、お金が発生する間は人はやさしくできるということ。
- 時間面
時間的な余裕のなさは、やさしいがつづかない要因になる。
そういうときは、余裕のなさによって誰かをコントロールしたくなる欲望が増える。
- 健康面
「身体は資本だ」とよく言われるが、やさしいの資本も身体の健康だ。
食事、睡眠、便通のうち、ひとつでもしっかりしていれば、健康には余裕がある。
経済面、時間面、健康面における余裕を確認しよう。
その力を生み出すことができれば、やさしいを生み出す土壌を耕すことができる。
自分にやさしくする
やさしいは誰にとっても困難――だからこそ「やさしい」を深く理解する必要がある。
「こうすればやさしくなれる」という方法はない。
だが、あなたの環境をケアしていくことで「やさしいがつづく」可能性は高くなる。
そのために、自分の現在の環境や状況を常日頃からチェックしよう。
そうすれば「やさしいがつづかない」ことに直面したとき、その理由に納得できるようになる。
自分にやさしくする――自分にやさしくできない人は、他人にもやさしくできない。
やさしいは、いつでも自分にやさしくしてあげることからはじまるのだ。
まとめ・感想
まとめ――やさしいをつづけることは、困難だ。
なぜなら、やさしいは自分をすり減らす行為だからだ。
人間には「やさしくありたい」でも「フリーライドを許せない」という相反する本性がある。
そのため私たちは、しばしばこの2つの本性に引き裂かれそうになる。
「やさしい」には「自分のコントロール権の譲渡」と「責任の引き受け」の2つの条件がある。
現代社会では、人々は自由を得るために他人のコントロールを奪うことに躍起になっている。
そして、責任が問われる意識は、私たちを痩せさせてしまう。
この2つの条件は、やさしいがつづくことの困難さを表している。
人間関係は、4つのモード(①共同的分かち合い、②権威ランクづけ、③平等マッチング、④市場価値づけ)があり、4つのモードが重なり合って営まれている。
「共同的分かち合い」のモードが「やさしい」を成立させることができる唯一の関係である。
身近な人同士でも「共同的分かち合い」以外のモードが入り込むことで、うまくいかなくなることがある。
「やさしい」には余裕が必要だ。
余裕の力は、3つの指標(経済面、時間面、健康面)で確認することができる。
自分の環境を常日頃からチェックし、ケアしよう。
自分にやさしくできない人は、他人にもやさしくできない。
「やさしい」はいつでも自分にやさしくしてあげることからはじまる。
感想――私は、本書を読むまで「やさしい」は感情だと思っていた。
しかし、違った。
言われてみれば、たしかにそうだ。
「やさしい」は行動で示されるもの。
行動で「やさしい」を示すことができないから、私たちは思い悩むのだ。
本書によれば、「やさしい」は「行動」と2つの必須条件によって構成される。
この2つの条件を見ると、現代社会で「やさしい」が成立することは難しい。
社会は、コントロール権争いを奨励する。
そして何かと自己責任論で片づけたがるのだから、これ以上の責任を負う余裕はない。
余裕がないからやさしくなれない。
それでも社会は「やさしくあるべきだ」という倫理観を植え付けようとする。
「やさしい」の語源は、古語の動詞「痩す(やす)」に由来する。
どうして「優しい」と書くようになったのか調べてみると、控えめな姿勢が「優美」「上品」「思いやり」として評価されるようになったからだそうだ。
「やさしい」は誰にとって都合がいいのか?
「やさしさ=従順さ=反抗しない」人は、支配者にとって秩序を乱さず、管理しやすい。
学校では「やさしくしましょう」と教えられる。
しかし社会に出ると、競争・支配・自己主張が求められる。
このギャップが、「やさしさ=搾取されやすさ」というパラドックスを生む。
「やさしい」が美徳として扱われだした理由に、陰謀論のようなものを感じてしまう。
誰に対しても、やさしくあろうとすることには問題がある。
本書にあるとおり、「やさしい」は奇跡的なことであって当然のことではない。
「やさしい」は、発揮されないのが通常。
だから、人にやさしくできないことを思い悩む必要はない。
奇跡はそうそう起きない。
「やさしい」が痩せないように、余裕を温存するべきだ。
やさしくしたいと思える相手との関係性を大切にすればいい。
やさしくしたいと思わない相手には、やさしくなくていい。
・・・そう開き直ってしまうのは些か危険な気もする。
しかし、心は軽くなるのだ。
本書は「憎しみ」についても言及している。
やさしいはつづかない。
それなのに、悪意はたやすくつづいてしまう。
気になる方は、この本を読んでみるといい。