イントロダクション
タイトル | : | 問うとはどういうことか 人間的に生きるための思考のレッスン |
発行日 | : | 2023年8月20日 第1刷 2023年8月11日 電子書籍 |
発行所 | : | 大和書房 |
著者 | : | 梶谷 真司 |
著者情報は、上記リンクからご確認ください。 |
本書のタイトルを見たときに思いました。
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思考を始めるには、問うことが起点になる!
これまでたくさん思考法の本を読んできました。
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それらから培ったものを活かすためにも、問う力は重要!
そう思い、本書を手にすることにしました。
オススメしたい人
- 思考の質と量を高めたい人
- 正しいことを自分で判断できるようになりたい人
- 答えのない問いに対する方法を学びたい人
学べること
人間には、現実ではないこと、目の前にないものを想像する力があります。
その力は、問いを発します。
そして、問うことは物事をより深く考え、理解することにつながります。
だから、私たちは将来や過去を考えて希望に胸をふくらませたり、不安や悔恨にさいなまれるのです。
私たちの生は、つねに問いと共にあります。
問うことは、考えることの基礎です。
つまり、思考の質と量は、問いの量と質によって決まるのです。
本書は、「人間的に生きるための思考のレッスン書」です。
ここでは、本書の内容の一部について、私の解釈で簡単にまとめています。
なぜ問わないのか?
生きていると、いろいろとわからないことがありますよね。
しかし、私たちはそれほど多く質問をしているわけではありません。
それは、何故なのでしょう。
たとえば、学校の授業等で次のような経験をしたことはないでしょうか?
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学校教育では、わかるようになることが目標です。
「わかる」ということは、「質問がない」ということです。
つまり、「質問がない」のが理想的なのです。
もし、ここで「わかりません」と言ったとしたら、どうなってしまうでしょうか。
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「わかりません」と言うと、周囲から笑われたりバカにされたりするかもしれません。
だから私たちは、わかったふりをするのです。
このように、問うということは、基本歓迎されないことなのです。
また、私たちにとって問いとは、ある種のテストであり、正解があるという感覚が強いです。
そのため、問われることは試されている感じがしてしまいます。
あまり気持ちのいいことではありません。
問いには「ちゃんと、わかっているのか?」と脅しのニュアンスが込められています。
問いに正しい答えを出さなければ、減点されてしまいます。
自分が問われるのが嫌だから、当然自分から問うのも躊躇します。
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それならいっそ、質問しないで適当に話を合わせておけばいいとなってしまいます。
このように最初から問わなければ、世の中も自分も平和で楽に生きられるのです。
問うことにどういう意味があるのか?
上述のとおり、問うということは、難しいことです。
しかし、それでも私たちは日々の生活の中でたくさんの問いをしています。
それは、それだけ私たちにとって問いが大切なものだからです。
問うという行為は… ①好奇心の表れ
問うということは、好奇心の表れです。
私たちは、理解したいことがあるときに問いかけます。
知的好奇心は、特定のテーマについて色々なことを知ろうとする欲求です。
また、人に向けられる対人的好奇心もあります。
好奇心とは、物事に対してであれ、人に対してであれ、自ら関わろうとする意志です。
それは、この世界で生きる原動力となります。
問うという行為は… ②違和感の表れ
この世界には、様々な悪意、愚かさ、不条理もあります。
そういうものに出会えば、つらく苦しくなったり不安になるでしょう。
何かがしっくりこない。
しかし、それを口にするのは難しいことです。
家でも学校でも会社でも、違和感を口にしてしまえば、それは不適応の印となります。
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多くの場合、何か間違いを犯したかのような反応を受けることになるでしょう。
その結果、私たちは自分に問題があると思ってしまうのです。
だから、私たちは違和感を抑え込み生きようとするわけです。
この違和感と共に生きようとすることは、実は悪いことではありません。
むしろ、違和感を感じることは当然のことなのです。
なぜなら、この世界は自分のためにあるわけではないからです。
自分と世界の間には必ずズレがあります。
そのズレが違和感を生み、疑問となって現れます。
それは、自分の存在証明と言えるものです。
だから、何であれ疑問を持てばいいのです。
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私たちは、問うことで自分の人生を生きることができるようになるのです。
何のために問うのか?
そもそも、私たちは何のために問うのでしょうか。
その目的の1つには、「知ること」があり、知るに値することには、「新しいこと」と「正しいこと」があります。
「新しいこと」を知る
たとえば、「近所においしいケーキ屋はないか?」と問えば、インターネット等で探しておいしいケーキ屋さんを見つけることができます。
そうすると、おいしいケーキを買って味わうことができます。
このように、新しいことを知れば、できることも増えます。
世界が広がり、新たな可能性を広げるチャンスを自分で増やせるようになります。
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「正しいこと」を知る
「正しいことを知る」とは、世の中、他者、自分について、より深く理解することです。
しかし、やっかいなことに何が正しくて、何が間違っているのか、判別が難しいのです。
さらにやっかいなことに、私たちは「知っていること」を「正しい」と信じてしまいます。
正しいことを知ろうとするなら、あらためて疑い、自らに問いかけなければなりません。
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常識から自由になる
常識というのは、価値観や物事の捉え方等を与えます。
こうした常識があることで社会は安定します。
私たちは、常識を身につけることで軋轢や衝突を起こさず社会に順応して生きていくことができます。
しかし、世の中には非常識な人間もいます。
多くの人は、非常識な人間を嫌がったり非難したりします。
しかし、実は常識のほうがおかしいのかもしれません。
常識の側にいる人間は、自分がマジョリティなので正しいと信じ込んでいます。
しかし、マジョリティであることは正しいことを意味しません。
「本当にそうだろうか?」と問うことは、常識から自由になるきっかけにもなります。
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権威ある人たちは、自分たちに都合の悪いことは言いません。
正しいことを確実に知ることは、極めて難しいのです。
何を問うのか?
問いには、いろいろな種類があります。
問いの種類と、それぞれの役割を知っていれば、いつ何を問えばいいかが分かるようになります。
たとえば、上述の例に引き続き、「本当にそうだろうか?」と考える場合について説明します。
「誰かが言っていること」、「自分が考えていること」。
物事の真偽を問いたい場合、これらを無条件に正しいと見なす前に、立ち止まり問いましょう。
- 「本当にそうか?」
- 「そうではないことはないか?」
そのために必要なことは、1つには「批判的精神の発揮」です。
そして、もう1つは「何事もすぐに真偽を決めない知的な謙虚さ」です。
どのように問うのか?
問うための第一歩は、疑問を感じることです。
そして、疑問を感じるためには、「引っかかり」、「違和感」を覚えなければなりません。
この第一歩が既に難しいかもしれません。
仮に違和感を感じて、疑問を抱くことができたとしても「どのように問えばいいか」を知らなければ、先に進むことはできません。
ここでは、問う方法について説明します。
問うには、様々な方法があります。
問いの対象の一連の流れの前後を見たり、俯瞰して見たり、意味や目的を掘り下げて見たり、何かと比較してみたり、見る角度や立場を変えて見たり、時間軸を変えて見る等の方法があります。
たとえば、自分が毎日サービス残業をしていることに違和感を持ったとします。
前に進む――それでどうするのか?
「問いを前に進める」とは、対象について「それが何につながるのか?」等と考えることです。
たとえば、残業代が出ない会社で働いていて、上司からこのように言われたとします。
- 「お前みたいな無能は、他の会社ではやっていけない。」
- 「お前みたいなヤツを雇ってやってるんだ。ありがたいと思え。」
- 「給料に見合った仕事をしていないのに、残業代をよこせとか、ふざけているのか。」
- 「俺は残業をしろとは言っていない。残業をしているのは仕事が遅いお前のせいだ。」
もし、そこに違和感を感じたなら、とりあえずこう自問しましょう。
「そんなことないんじゃないか?」
そう考えると、次の問いに進むことができます。
- 「そのように言われる背景には、何があるのか?」
- 「そう言われることを肯定するとすれば、それは何か?」
- 「それでどうするのか?」
言われた言葉に「そうですね」と言って終わらせることもできます。
しかし、本当にするべきことは、そんなことではなく、その先に問いを進めることが重要です。
上に進む――より大きい視点から見ると?
「問いを上に進める」とは、より一般的な観点、より広い視点から対象を捉えることです。
目の前の問題に精いっぱいで行き詰っているようなときに使える、視野を広げて俯瞰的に考えるための問い方です。
「なぜ自分はこんな目にあっているのか?」
自分が苦しい境遇にいるとき、そのような思いに駆られることがあります。
そんなときは、次のように問うてみましょう。
世の中には同じような境遇の人がどこにどれくらいいるのか?
調べてみると、他にも似たような境遇の人がいることがわかります。
そして、同じような苦しみを抱える人が、どこに救いや希望を見出すのかを考えることができます。
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下に進む――より深く掘り下げてみると?
「問いを下に進める」とは、問題を掘り下げ、より深く正確に理解しようとすることです。
これは、問題を明確にしたり、根底から見直したりするための問い方です。
これには、方法を問うことも含まれます。
「もっと自由に生きたらいい。」
たとえば、そんな提案を受けたとします。
すると、次のような問いにつながります。
- 「自由に生きるためには、どのようにすればいいのか?」
- 「そもそも、自由とは何か?」
それがどういう状態で、どうすればそうなることができるのか考えれば、実現への道が開ける可能性があります。
問い続ければいいというものではない
ここまで、問うことの重要性について説明してきました。
しかし、世の中には「問うべきではないこと」も存在します。
ここでは、その中から2つ説明します。
非倫理的な問い
「問うべきではないこと」の1つは、非倫理的な問いです。
たとえば、「どうやったら人を騙してお金を巻き上げられるか?」等です。
これは、目的自体が非倫理的であり、問うこと以前の問題です。
非倫理的な目的であったとしても、いったん「正しいもの」と設定して問いはじめてしまうと、目的を批判することは難しいのです。
非倫理的な目的からはじまり帰結する暴力は「必要な犠牲」とされて歯止めがきかなくなります。
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目的を誤ると怖いですね。
目的設定の重要性がわかります。
では、目的が非倫理的なものであるかをチェックする方法はあるのでしょうか。
それは、「感性」に訴えることです。
「子どもの前で、言い訳したり、ごまかしたり、隠したりしなくていいか?
子どもの無垢な魂の前に恥じることなく立てるかどうかを問いましょう。
これが、非倫理的な問いを止めるための唯一の手段です。
苦しみを増やす問い
問いは、私たちに苦しみをもたらすことがあります。
たとえば、自分が重い病気になってしまったり、大切な人を訳もなく殺されたとき等です。
- 「なぜ私が?」
- 「なぜこんなことに?」
堪えがたい理不尽に見舞われたとき、人は問わずにはいられません。
いくら問いを重ねても、納得できる答えなど見つかりません。
どうすればいいかわからず、苦しみは増えてしまいます。
起きてしまったことを、問題と思わなければ苦しむことはありません。
自分が身を置く現実を、そのままに受け止めることができるのなら、そうすればいいでしょう。
しかし、それができない場合はどうしたらいいのでしょうか。
問いに無理に答えを与えたとしても、問いと苦しみを抑えつけることで、苦しみはさらに増します。
すべきことは、問いに答えを求めることではなく、問いから逃げることでもありません。
方法は、たった1つです。
ただ問いのまま受け止める
可能なら他の誰かに話を聞いてもらうといいでしょう。
これは、言わば問いと苦しみに尊厳を与える行為です。
それは、問いと苦しみに「落ち着ける場所」を見つけてあげることにつながります。
おわりに
問うことは、私たちを偏見や常識、自分の思い込みから自由にしてくれます。
他方で、悪意や歪んだ正義、愚かさや猜疑心があれば、非道な考えや無益な想念を生みます。
また、問うことは、不安と苦悩を満たすこともあります。
そうなれば問えば問うほどはまりこんでしまい、人生は悲劇に見舞われます。
このように、私たちは幸福と不幸、成功と失敗に向かう道を往還します。
問いに答えられるかどうかは、大して重要ではありません。
答えよりも、問いを問いとして受け止めることこそが重要です。
それが、人間的であるということです。
そこに潜む危うさをわきまえつつ、怖れず勇気と節度をもって問えばいいのです。
読んだ感想
良い思考は、良い問いから始まると考えていいと思います。
日々の生活で、起きる様々な出来事をそのまま受け入れるのではなく、まず立ち止まり問うことの重要性を学びました。
問いから発した思考は、行動につながる可能性があります。
行動することは、未来へつながる選択肢をつかみとることだといえます。
つまり、良い問いは、良い未来を生むことができるのです。
思考は、思うがままに任せていると自分でも予想できない方向へと歩みを始めます。
そして、何処に行きつくのかはコントロールできず良い方向に行くこともあれば、その逆もあります。
何処にもたどり着くことができず、無限の回廊をさまようことになってしまうかもしれません。
思考を効率化し、その向かう先を良いものにするためには、問い方も上手である必要があります。
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問いは、思考に指向性を持たせます。
そのため、人生において「問う力」は、必ず学んでおくべきことだと本書を読んで思いました。
著者は、本書のおわりで「この本を哲学者として書いている」と記しています。
哲学とは、調べてみたところ「世界や人生などの根本原理を追求する学問」だそうです。
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答えのない問題に対して自らの思考を使って物事を深く追求するということのようです。
私は、哲学を食わず嫌いをしていて、これまで自ら率先して学ぶようなことをしてきませんでした。
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実は、読み始めは哲学の本だとは知りませんでした。
しかし、なるほど。
立派な学問のようです。
哲学との偶然の出会いをもたらしてくれた本書に感謝いたします。
本書には問う意義や目的、問い方の他、実践編として問う力をつけるためのワークも掲載されています。
本書を読めば、詳細や実生活での問い方を知り、より深い理解を得られることでしょう。
問う力は、注目のChatGPTのような生成AIを使いこなすためにも活かされると思います。
これは、プロンプトを書くスキルにも直結しますし、回答を鵜吞みにせずハルシネーションに惑わされないことにも役立つスキルです。
これからの時代、実用性においても、より重要性を増していくと考えています。