【要約】『自分とか、ないから。教養としての東洋哲学』仏教の無我、空とは?わかりやすく解説

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タイトル自分とか、ないから。教養としての東洋哲学
発行日2024年4月23日 初版発行
発行所サンクチュアリ出版
著者しんめいP
著者情報は、上記リンクからご確認ください。

「自分とか、ないから」。
本書のタイトルを見たとき、大学生の頃の就職活動のことを思い出しました。

「あなたが本当にやりたいことを見つけなさい。」

いろいろなところでこんな感じの言葉を見たり聞いたりしたと思います。

「あなたのことは、あなたが一番わかっているはず。」

そんなことを言われても、わからない、見つからない。
あの頃は、仕事は一生の問題だと思っていたので焦りました。
そして、就職活動を終えてもわかりませんでした。

そもそも働きたくない。

あの頃、誰かに「自分とか、ないから」と、言ってもらえたら楽だったと思います。

そう思い、本書を手にすることにしました。

オススメしたい人

  • 虚無感を感じている人
  • 人生が苦しい人
  • 東洋哲学に興味がある人

学べること

東洋哲学のいいところは、基本的に「どう生きればいいか」がテーマなことです。
そして、「答えがある」ところです。

本書は、東洋哲学を通して「とにかく楽になる哲学」について学ぶことができます。
著者は学者でも僧侶でもありません。
しかし、宗教学者の先生が監修しているので安心できる内容です。
むしろ専門家以外の人の受け取り方の方が、素人としては理解しやすくありがたいです。

素人が専門家の話をいきなり聞いても理解できないのは、たぶん宗教学も同じはず。

ここでは、本書の内容の一部について、私の解釈で簡単にまとめています。

「無我」 自分なんてない(ブッダ)

ブッダは、自分探しの苦行を通して悟りを開きます。
そのことにより、私たちの人生が苦しい原因を完全解明しました。
その苦しみの原因とは「自分」です。

自分・・・ですか?

ブッダは悟った結果、1つの答えを見つけます。
それが「無我」です。

無我 = 自分とか、ない。

さらにブッダは、次のように言います。

  1. 自分とはただの「妄想」。
  2. この世界は、全部つながっている。

そもそも「自分」とは何でしょうか?
何をもって「これが自分だ」と言うことができるのでしょう?

えっと・・・身体とか思考や感情ですよね。

しかし、ブッダはそれを否定します。

身体は、「自分以外」を食べてできています。
たとえば、あなたが鳥を食べたとします。
その鳥は虫を食べ、虫は草を食べ、草は水や太陽の光を取り込んでいたはずです。

思考や感情は、自発的に生み出すものではなく自然と湧き上がるものです。
たとえば、よく晴れた空を見れば明るい気持ちになったりするでしょう。
その感情は、自ら「明るい気持ちになろう!」と考えてなったわけではなく、よく晴れた空によって引き起こされた自然現象です。

このように、この世界は全部がつながっているのです。
「これが自分だ」といえるようなものは、ひとつもありません。

それでも、なお「自分」をつくろうとするとどうなるでしょう?
何もかもが変化するこの世界は、すべてが流れ去る激流のごとし。
「自分」は、その流れを塞き止めようと積み上げた石の堤防のようなものです。
石の堤防は、いずれ決壊します。
だから人生が苦しくなるのです。

ブッダの言葉が残っています。

「おれがいるのだ」という慢心をおさえよ。
これこそ最上の安楽である。

ウダーナヴァルガ 30章 一九
自分とか、ないから。教養としての東洋哲学 1章より

最上の安楽とは、「一番、きもちいい」ということです。

「自分」を全部すてたら「一番、きもちいい」。

この「一番、きもちいい」の境地をニルヴァーナ(涅槃)と呼びます。

ブッダの教えは、後に弟子たちによって仏教となります。

「空」 この世はフィクション(龍樹)

ブッダの死後、『ブッダの「無我」、難しすぎる問題』が勃発します。
それから700年の時を経て、ずっと続いていたこの問題を解決する1人の天才が現れます。
その天才の名前は、「龍樹」です。
そのとき、ブッダの教えは「阿毘達磨大毘婆沙論」という本(全200巻)にまとめられていました。

「あびだつまだいびばしゃろん」と読みます。

とんでもないボリュームであることもさることながら、当時のほとんどの人は文字を読めません。
民衆の心は仏教から離れていました。
龍樹はすべての議論を論破していき、わずか一文字にします。
「空」です。

この世界はすべて「空」である。

「空」とは、何なのでしょう?
「空」は、「フィクション」と置き換えて理解することができます。

それは、ディズニーランドみたいなものです。
ディズニーランドは、夢の国。
入った瞬間に魔法にかかり、私たちはフィクションを現実のものととらえます。
そして、出るときに魔法が解けて現実に引き戻される感覚を経験をしたことがある人は多いでしょう。
しかし、実はフィクションからフィクションに移動しただけのことなのです。

この世界は、「ディズニーランド」みたいなもの。

ディズニーランドにおける「ゲスト」と「キャスト」のように、関係性もフィクションです。
退園すると消滅します。
これは、あらゆる関係性にも同じことが言えます。
たとえば、恋愛における「彼氏」「彼女」。
たとえば、家族における「妻」「父」「母」…。
たとえば、会社における「役員」「社長」「社員」…。
互いに魔法をかけあって役を演じているだけなのです。
それは、モノとの関係性であっても同じです。

龍樹からすれば「社長」も「社員」も同格。
互いに役を演じているだけで、あなたはいつでも幻から覚めていいのです。
「社員」を辞めれば「社長」を敬うフリも必要ありません。
すべてはフィクションなのです。

すべてはフィクションであるならば、すべての幻が消えたらどうなるのでしょうか。
答えは、「全部つながっている」です。

この世界は、「全部つながっている」(縁起)。

フィクションの世界を出れば幻によって見えていた境界線は存在せず、全部つながっています。
「縁」によって全部がつながる、これを「縁起」といいます。
「空」を悟った人は、「こめつぶ」に宇宙を見るそうです。
「こめつぶ」は「すべて」とつながり、「すべて」は「こめつぶ」とつながります。
これを「一即多、多即一」といいます。

「空」の哲学では、すべての悩みは成立しなくなります。
人は「自分」について悩みます。
しかし、龍樹は『自分の「不変の本質」があると思っている奴はバカ。』と言います。

どういうことでしょうか?

たとえば、善悪を例に説明します。
ヒーローという存在は、必ず悪者を要求します。
悪者がいない世界では、ヒーローは成立しません。
つまり、「本質的なヒーロー」はありえないのです。
このように「不変の本質」は、すべてフィクションです。

「強い/弱い」「善い/悪い」「有る/無い」、すべては「縁」で変わります。
「自分は弱い」「自分は才能がない」等といったことは、自分の「不変の本質」ではありません。
そもそも「不変の本質」なんて成立しないものを前提にして悩むのは間違った思考です。
それらは、自らつくったぬかるみにハマるようなもの。
龍樹は、「クソしょうもない考え」という意味である「戯論(けろん)」とよびました。

つまり、龍樹はこう言いたいのです。

すべての悩みは成立しない。だから、ぜったい大丈夫。

 

読んだ感想

本書は、著者のくだけた口調で文章化されている反面、読者に難しい内容をなんとか伝えようと丁寧に努力されて書かれた印象を受けます。
普段、宗教の本は敬遠してしまい読むことはないのですが、本書は気楽に読むことができました。

ここでは、本書の内容の「無我」「空」について要約しました。
要約してみて自分なりにわかったことがあります。
それは、東洋哲学は物事を抽象化しないと理解できないということです。
高い視点で俯瞰して考えて、個を捨て物事を=(イコール)で結ぶと何となくわかった気になります。
きっと、東洋哲学を学ぶときは基本的にこの視野が必要なんだと感じました。
そして、自分が「悟り」とはものすっごく遠いところにいる存在であることがわかりました。

「東洋哲学は劇薬である」と本書の内容にあります。
東洋哲学には弱点があるのです。
ここまで読んだ方なら気づいているかもしれません。
それは、「世界のフィクション性を見破り過ぎて無職になりがち」ということです。
しかし、安心してください。
「無我」「空」に続く、老子、荘子の「道(タオ)」の哲学を知れば弱点効果は薄まるはずです。
「無為自然」、つまり「ありのままでいい」ことの意味を正しく理解できれば本当に最強です。

個人的に苦手な宗教の話も、本書は教養として「これくらいは知ってた方がいい」と思える範疇のピッタリな内容でした。
人生に虚無感や生きづらさを感じることは、現代日本では誰でもあることだと思います。
そんなときのために本書を読んでおいてはいかがでしょうか。

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