【要約+感想】『不完全主義』|やるべきことは終わらない。それでも人生は楽しめる

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自己理解・自己啓発

はじめに:「やることが多すぎる」と感じている人へ

計画どおりに物事は進まない。
未来は予測できない。
それでも、行動することでしか見えない景色がある。

完璧主義や自己批判に縛られていては、今この瞬間を楽しむことができない。
それでは、あなたの人生は始まる前に終わってしまう。

不確実さを受け入れ、心のブレーキを外して前に進もう。
完璧を目指すのは、もうやめよう。
そうすれば、人生はもっと面白く動き出す。

書籍の基本情報

タイトル不完全主義 限りある人生を上手に過ごす方法
発行日2025年7月7日 第1刷発行
著者オリバー・バークマン (著), 高橋璃子 (翻訳)
発行所かんき出版
詳細不完全主義 限りある人生を上手に過ごす方法

主要なポイント・学び

きっと覚えがあるだろう。
うまく寝つけない夜中の3時。
襲いかかる重苦しい憂鬱。
こうなりたいと思い描く人生は、手に入らないのではないか?

――そのとおり。
そんなものは絶対に手に入らない。

これを認めるのが逆転の鍵だ。

自分の有限性を受け止める

状況は思ったよりずっと悪い。
やるべきことはあり過ぎるのに、時間はまったく足りていない。
それでも、なんとかすべてを終わらせようとエネルギーを放出し続ける。
しかし、そんなことでどうにかできるほど状況は甘くない。
「やるべきリスト」は、ただ膨大なだけではなく無限なのだ。
すべてを終わらせることは、そもそも不可能。
そう気づいたとき、心の中の何かが切り替わる。

急な豪雨に降られ、全身ずぶ濡れになるしかないと悟ったときの心境。
どうあがいても、これが現実。
冷静にそう理解したとき、不安は静かに引いていく。

すべてが完璧でなければというプレッシャーから解放される。
もう濡れずにいるのは、どうしたって不可能。
現実を直視すれば、今できることをするための意欲が湧いてくる。

うまくいくかどうかはわからない。
だからといって怯えていても苦しみは消えることはない。
この人生をやっていくしかない。

人生をうまくコントロールする方法はないし、逃れる方法もない。
それは問題ではない。
本当の問題は、限りある人間にそんなことが可能だと考えることにある。

誤った一歩に見えても、それが次に進むための一歩だ。
限りある時間を有意義に使う方法は、「とにかくやる」。
すごく立派に見えるプロも、たいてい手探りでやっているものだ。
うまくいくかどうかは、やってみないとわからない。
準備不足のまま、とにかく飛び込むしかない。

覚悟を決めて代償を払う。
何かを「しなくてはならない」という状況は、本人が思うほど絶対的ではない。
本当は何をどうしようと自由だ。
代償を払う覚悟さえあれば。

ただトレードオフがあるだけだ。
「これをしなくてはならない」は、「それをしなかった場合の代償を払いたくない」ということ。
今すぐ何の見通しもなく仕事を辞めることは、不可能ではない。
トレードオフを検討し、どちらがマシかを選ぶしかない。
これが制約から自由になることができない人間に許された唯一の自由なのだ。

すでに成し遂げられたことに人は気づかない。
多くの人が、毎朝「生産性の負債」を抱えて1日をスタートする。
なんとか夜までに負債を完済しようと必死で仕事をする。
まるで負債を返しきれなければ、この世に存在する資格がないように。
どこまで行っても休む暇がない。

「生産性の負債」から抜け出す道はある。
やるべきことではなく、やったことに目を向けるのだ。
「やるべきリスト」で自分の達成度を測ると、「まだできていないこと」が比較対象になる。
それでは永遠に「何かが足りない」という感覚から逃れられない。
「やったことリスト」は、何もしなかった状態を比較対象にすることができる。
自己肯定感が高まり、日々の生活を「着実な成果の積み重ね」と捉えることができるようになる。

未来のことは未来にまかせる。
心配とは、未来に起こるかもしれない不安や問題に対して思い悩む行為。
思い描いた最悪のシナリオが本当に起きるのか起きないのかを確かめたくて躍起になる。
しかし、この世にまだ存在していない事実を知ることはできない。
人は、様々な意味合いにおいて有限である。
時間は有限だし、他人を思いどおりに動かすこともできない。

やり場のない不安はぐるぐると頭をめぐり、未来のために役立つタスクへの集中を妨げる。
本当に未来のことを思うなら、やるべきことはただひとつ。
「次にすべきこと」にベストを尽くす。
限りある人間は、その限界の中でいかに有意義に過ごすかということだけを考えればいい。

不完全に行動を起こす

意思決定は行動である。
この混沌とした人生のどこかに、行き詰まりを解消するチャンスが潜んでいる。
人生を豊かにしたいのなら、そのチャンスを自分から探しに行くことだ。
アクティブな意思決定をするうえで、覚えておきたいルールがある。

「意思決定には、行動がともなわなければならない」

頭のなかで決めたつもりになっても、行動しなければ決めていないのと変わらない。
その決断はどんなに小さくてもかまわない。

何がベストな選択なのかを前もって確かめることはできない。
過去の選択が他の選択肢と比べて素晴らしかったのか最悪だったのかを知ることもできない。
しかし多くの人は、答えがわかるまでどうすることもできないと思い込んでいる。

人は、前に進みたければ道を選ぶしかない。
選択を拒否することはできない。
それは結局、分かれ道の手前で立ち尽くす選択をしたことになるからだ。

窮屈な死よりも自分を広げてくれる死を選ぶ。
今、自分に課せられているライフスタイルは何か?
この問いは、人生の分かれ道で悩んでいるときに強力な助けになる。
自分のライフスタイルを知るための手がかりは2つある。

  1. 常に努力と困難を伴う
    目先の快適さよりも「自分を広げる」方向にある。
    ある人にとっては、やり慣れた仕事から離れることかもしれない。
    逃げ癖のある人にとっては、その仕事に留まることを意味する場合もある。
     
  2. 実現可能であること
    目の前の状況から立ち上がってくる現実の課題。
    今いる場所で、手持ちのスキルやリソースでできること。

自分がどうしたいかではない。
人生が自分に何を求めているかを考えるといい。

今の仕事を続けるしかない。
周囲の人をがっかりさせられない。

――そんな思い込みに人生を左右される必要はない。

問題だらけの状態を楽しむ。
いつか問題の対処に追われることなく心静かに暮らせる日がやってくる。
そう思ってはいないだろうか?
そんな日は、永遠に来ない。
問題は永遠になくならないのだから、問題をなくそうと奮闘しなくていい。
問題だらけの現在を否定しなくてもいい。

問題とは、物事を思いどおりにする能力の限界に直面した状況を表す言葉だ。
人間は万能ではない。
新たな問題が出てくることは、ごく当然の成り行きだ。

問題のない人生など意味がない。
何ひとつ問題がない状態では、やるべきことがなくなってしまう。
問題に直面して、それにどう立ち向かうかが人生を形づくっている。

たとえば、刑事ドラマを見たり、ゲームをしたり、新しいことに挑戦したり。
もしも問題解決の要素がなかったら、どれも楽しくない活動になってしまう。

人生は問題の連なりだ。
それがようやく途切れるのは、人生の終わりを迎えるその時。
だから今は、問題をなくすのではなく、問題にもっと心躍る人生を目指そう。

握った手をゆるめる

私たちは、自分に厳しすぎる。
物事を必要以上に難しくしてしまう原因は、自分への思いやりの欠如だ。
自分で「やる」と決めたことを実行できなくても自分を責めなくていい。

自分がやりたいと思うことを、気が向いたタイミングでやればいい。
やりたいことをやるとき、人は自分の欲望を燃料にして動くことができる。

私たちは、親や学校や社会から「自分を厳重に監視せよ」という規範を刷り込まれる。
少しでも監視の目を緩めたら、ひどいことになると思い込まされている。
しかし実際は、自分に優しくした方が物事はうまく進み出す。

なぜなら、あなたは無価値な怠け者ではないからだ。
厳しく監視したり𠮟りつけなくてもちゃんとやっていける。
それが本当のあなただからだ。

ときには欲望に振りまわされることもあるだろう。
だが、そんな自分も認めることだ。
それが限りある人間の現実なのだから。

内なる品質管理者をクビにする。
仕事の出来栄えを気にし過ぎる人は、心のなかに厳しい門番を置いている。
門番の厳しい審査を受けて承認された場合だけ、アウトプットすることができる。

質にこだわり続けると状況は深刻化する。
門番は「もっと厳しく管理しなくては」と要求水準をどんどん上げていく。
「アウトプットの質を上げよう」という意識は捨ててしまったほうがいい。

完璧主義とは、傷つくことを避けようとする脳の働きだ。
おかしなものを出すことで、恥ずかしい思いをしないようにブレーキをかけている。
アウトプットをするときは、この脳の働きを一時的に遮断する必要がある。
そのための方法は、「質よりも量を目的にする」だ。
そうすることで、純粋に「何かを作る」という確実なゴールに向かうことができる。
質のチェックを受けることなく、どんどん作ることができるようになる。

集中力を高めない。
私たちは、効率化や生産性を高めるために様々な工夫を凝らして邪魔を防ごうとする。
この「邪魔を防ごう」という姿勢は、「現実をコントロールしたい」という欲望の表れだ。
邪魔を予め排除できると考えることは、未来が全部わかっているつもりでいるということ。
「こうあるべき」と強くこだわれば、勝ち目のない戦いになってしまう。
人生全体がその見方に汚染され、すべてのことが邪魔な作業に思えてくる。
そうなれば、本当の人生を生きられないと感じてしまう。

現実は出来事の連続だ。
客観的に見れば、そのひとつひとつに善悪があるわけではない。
出来事を有益と取るか邪魔と取るかは、心のフィルターで振り分けた結果に過ぎない。
一見邪魔に見えても、実はとても良い結果につながるものだってある。
邪魔を排除する態度は、そんな思いがけない出会いの可能性を遠ざけてしまう。

心は本来、新たな刺激を受け入れる体制になっている。
神経科学の研究によれば、この状態は豊かな創造性につながっているとされる。
完全な集中にこだわり過ぎると、心の自然な動きがすべて邪魔に思えてしまう。

邪魔な人や物事を遠ざける態度で生きていると、ありのままの現実と関わる力が失われる。
何がどう転ぶかは誰にも予測できない。
邪魔を毛嫌いするのではなく、もう少し中立的に捉えてもいいのではないだろうか。
ふいに目の前に広がった絶景のような、予期しない素敵な出来事に出会えるかもしれない。

人生は今ここにある

ただの人間にできること。
どんな偉業も、すべて不完全で欠点だらけの人間によって行われたこと。
才能や受けられる教育に差があることは否めない。
しかし、それでも超人的な能力を必要とするものはひとつもない。

何かを成し遂げる人とそうでない人の違いは、限界を受け入れられたかどうかだ。
未来を確実に知ることは不可能だし、無限の仕事量をこなすこともできない。
「どうなるかわからない」という状況でも挑戦を諦めないことだ。

やるべきことに取りかかる。
限りのある一度きりの人生を有意義に送るために何をすべきか?
その答えは、自分で見つけなければならない。

何か特別なことをやりとげなければ。
そうでなければ、自分の人生には意味がない。

――それは有限性への不安の表れだ。
そう思わなければ、自分がちっぽけでいつか死ぬ存在であると痛感してしまう。
だから必要以上に壮大なレベルの基準を設定してしまう。

重要さの物差しを疑った方がいい。
周囲の人たちにそっと力を貸すようなささやかな行為だって同じくらい有意義だ。

樹木に実が成るように、世界に人が成る。
私たちの存在は、世界と切り離して考えることはできない。
私たちがすべきことは、世界を理性で把握することではない。
世界に対して自分の存在を正当化することでもない。
世界の一部として与えられたこの身体と心で、自分らしく生き抜く。
ただ直感に従い、心からワクワクできることに取りかかる。
「これが大事だ」と、そうすることが自分の務めだと感じることをするのだ。

把握できない世界を生きる。
人には「知ること」にも限界がある。
私たちは問題に直面したとき、行動の前に何が起きているのかを把握しようとする。
しかし、この段階で状況がよくわからないとひどく不安になる。
だが事態を正確に知ることは、必ずしも必要ではないかもしれない。
知識が生の実感を妨げる場合もある。

状況がよくわからないなかで、安心して生きていくのは難しい。
しかし、人類の歴史を振り返れば、この世界は謎だらけだ。
そもそも人生はわけがわからなくて危険なものなのだ。

もしも人生に喜びがあるとするなら、それは混乱と不安のなかにこそある。
生きる意味は本当にはわからない。
わかる必要がないのだ。

状況がよくわからなくても、何らかの一歩を踏み出してみる。
知識に頼らない生き方は心もとなく感じられる。
だが、わからないことは間違ったことではない。
何も恥じる必要はない。
すべてに確信が持てるまで行動を控えるべきではない。
わからないままで、堂々と生きていい。

まとめ・感想

人生や現実は完全にコントロールできない。
計画どおりにはいかないし、未来は予測不可能だ。
この不確実さこそが人生の面白さや価値を生む。
「どうなるかわからない状態」を受け入れることだ。
偉大なことを成し遂げる人は、みんなそうしてきた。
人生の意味や全貌を理解する必要はない。
不確実な状況で行動し、喜びを見つけることが重要だ。

完璧主義により質を求めすぎると行動が止まる。
今、自分が心からワクワクできることに取りかかろう。
思い切って行動することで、思いがけない成果が生まれる。

過去は過ぎ去り、未来はまだ来ていない。
今こそが唯一の存在する時間。
未来のために生きるのではなく、今この瞬間を楽しみ、行動しよう。

――いつだってやるべきことがある。
毎日を何かに追われているように過ごしている。
今は、まだ何も成せていない。
それでも頑張り続ければ、何かが変わる。
いつかやるべきことがすべて片付き、自由に人生を謳歌できる日がやってくる。
そんな風に漠然と考えていたことに気がついた。

「でも、本当に?」
「そんな日はやってくるのだろうか?」

老後は「やるべきこと」に縛られず、のんびり過ごしたい。
そのために、複数の収入源をつくれるように頑張らなければ。
資産形成もしっかり行っていかなければならない。
いまは楽しいことを我慢して節約しなくてはいけない。

無意識で、まるで老後からが本当の人生の始まりであるかのように思っていた。

人は、すべてにおいて有限だ。
本当の人生を過ごせるのは、人生の何パーセントの時間だろうか。
もしかすると、それはゼロパーセントかもしれない。

「だとしたら、何のために?」

未来のための備えは必要だ。
その考えは変わらない。
でも、もう少し今を楽しんでもいいのではないだろうか。

人生は有限。
やるべきことは無限。

手あたり次第、人生という川に流れてきた「やるべきこと」を拾い上げていたように思える。
でも、本当にそれは拾い上げる必要があるのだろうか?
拾わなければ、「やるべきこと」はただ流れ過ぎ去っていくだけだ。
それでいいのではないだろうか。
どうせ新しい「やるべきこと」は、次々と流れてくるのだから。

「やるべきこと」をすべて片付けようとしない。
気が向いた「やるべきこと」から片づけていく。
流れ去っていく「やるべきこと」は無理に追いかけなくていい。

今こそが人生の本番。
未来のための準備期間ではない。
不完全な今を、未来と同じくらい大切にするべきだし、本当はそれ以上に愛するべきだ。
どうしたって、いつまで経っても不完全。
やれることは限られる。
だから、肩の荷を少し下したくらいの感覚で生きるのがちょうどいいのかもしれない。
そうして空いた時間は、何か素敵なことに使ったらいいと思う。

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